宗教の勧誘で訪問してくるおばあちゃん

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人生・メンズ美容

宗教の勧誘で何度も訪問して来るおばあちゃんがいる。

歳の頃は80代の半ばくらい。ニコニコしていて、とっても優しそうなおばあちゃん。小柄で少し背中が曲がっていて、見た目は小綺麗な格好をしている。我が家のおばあちゃんが、こんな人だったら良いなと思えるような印象。

でも何度も何度も、宗教の勧誘のために訪問して来るんだ。「あなたにも幸せが訪れますように」って、もはやこの人が仏様でないかと、そう思わせるようなオーラを出している。

今回はその、宗教の勧誘で訪問してくるおばあちゃんも含めて、私の個人的な宗教に関する思いを綴りたい。いつもと違ってコラム的な感じです。

インターホンの15%

インターホンが鳴ると、ほとんど大抵は配達業者だ。

アポなしで来る友人や親族はいないし、ご近所さんだって用事で来るような人は連絡先を知ってるから、事前に連絡があるはず。

なので、インターホンが鳴ったときに明らかに配達業者じゃなかった場合、ドキッとする。

配達業者以外の3/4はセールスだ。ソーラーパネルとか、〇〇乳業とか、ヤクルトレディとか、某テレビ局とか。ついこの間には、近隣工事の説明を装って光回線のセールスをするというタチの悪いNURO光という業者が来た。

このツイートには、すぐに本家アカウントから謝罪コメントが来た。でも許さない。

そして、配達業者以外の1/4が宗教の勧誘だ。

冒頭で言及したおばあちゃん率が高いけど、別のおばあちゃんとか、50代くらいの男性が来ることもある。ちなみに滋賀県の田舎に戸建てで住んでるんだけど、これだけ宗教の勧誘で家に訪問して来るのって、地方ならではなのかな。都会で訪問での勧誘なんてないよね。

丁寧にお断りしても、「せめてこれだけでも」って言って、分厚めの小冊子を置いていくんだ。そして一定期間が経過すると再びやってくる。記憶がリセットされてんのか、いやタイムリープ。リセマラか。

私の宗教観

別に嫌いというわけではない。 

なんらかの宗教に入っている人達に嫌悪感もない。

神に祈るという行為だって嫌いじゃない。神社にお参りも行く。大病に罹れば神頼みもしそうだ。八百万の神々がいるという日本の考え方なんかも、どっちかっていうと好きな方だ。

ただ望んでないのに、いつの間にか自分に降りかかってくる。

そんな宗教が苦手だ。

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始めて意識したのは大学時代

18歳の夏。大学生活で初めての彼女と、お付き合いを始めて間もない頃のこと。

「私、実家が教会でキリスト教なの」

「だから、その、そういう行為ができなくて」

「あの、そういう行為って、わかるよね?」

お付き合いを始めてからのカミングアウト。有頂天だった自分に突然の訃報。晴天の霹靂。後出しジャンケン。勝利目前のわき腹に必殺の一撃。

キリスト教徒は婚前交渉を禁止されているのか?

否、結果的には禁止されていなかった。実際には彼女の思い込みで、「お願いだからもう一度しっかりと調べてみて欲しい」という私の懇願により、真実が明らかになったのだった。

これが最初に芽生えた「宗教」への不信感。

安堵したのも束の間。

彼女はキリスト教徒。しかも牧師の娘。毎週日曜日にあるお祈りの儀式「ミサ」には必ず出席しなければならなかった。割と忙しい大学生であったら我々には、この日曜日の制約が非常に厄介で、日曜のお出かけや土日の旅行なんて行けたものではなかったのだ。

厄介なのはそこだけではなくて、それぞれの感覚の違いである。私とは違って、彼女には日曜日に柔軟に活動できないというのが当たり前であることだ。

なぜ幸せを求めて信じる宗教によって、生活に制限が生まれるのか。なぜ彼女はおかしいと思わないのか。

選挙権もなかった頃の当時の自分には到底理解できなかった。

母方の実家が創価学会

創価学会は自身の子供を必ず入信させる、という慣習があるようだが、わが家は父親のヒエラルキーの高さと宗教心の低さの影響か、母親は私に宗教活動をさせることはなかった。

それでも、思えば昔から、見知らぬ人が家にやってきては「ありがたい話を聞きに行こう」と誘われたものだ。思春期の少年に「ありがたいお話」なんて歌い文句、誰が乗るものか。「あなたの名前も名簿に載っているのよ」なんて言われた日には、自分の知らない所でことが動いている気味の悪さと、勝手に自身の権利を侵害されているような苛立ち感があった。

当時はそこまで気にも止めていなかったが、キリスト教徒の彼女とのお付き合いの中で、そんな出来事を思い出していた。

親族の事故

慕っていた従兄弟がバイク事故に遭った。

その従兄弟は「エホバの証人」という宗教に入信していた。エホバの証人では輸血を受けてはならないという教えがあるらしく、結果的に死にはしなかったが、彼は死にそうになりながらも最後まで輸血を受け入れることはなかった。

家族から聞いた話なので詳細は分からないが、その事故のあたりから何となく疎遠になった。というかもう、十何年も前なのにあれから一度も会ってない。

苦手意識の芽生え

当時の、この時点で私は宗教に苦手意識を抱く。

婚前交渉できない、定期的にお祈りしなければならない、輸血してはいけない。宗教における数々の制約はなんなんだろうか。特定の肉を食べてはいけない、とか。

なぜ生活に制限が生じるのを良しとするのか。

決して否定しているわけではない。

自分には受け入れられないだけだ。

親切心とお布施

私の妻の叔父さん。

人は良いのだが、なぜか年に数回ある親戚の集まりで、毎回、親族全員に知らない宗教のお布施を要求してくるのだ。金額はごく少額なのだが。

「君達の幸せをおねがいしてくるからね」と。

当然、私も妻も良くは思っていない。

他の親族がどう思っているのかは、何となく聞けない雰囲気。義母からすると、「彼は苦労してきて、その宗教に助けられてきたの。お布施くらいしてあげようと思っているの」と、私たち夫婦の分をまとめて支払い、署名もしてくれている。

彼が信仰によって助けられたのは素晴らしいことだと思う。ただ、それは私たちには関係がない。義母が支払いをしてくれているとはいえ、自分たちの署名がされ、得体の知れない宗教団体に資金が行く、というのが、なんとも受け入れられないのだ。

散々お断りの旨を伝えようと考えたが、義母には大変お世話になっているので、今のところは抑えている。

この宗教関連によって、私だけかもしれないが、良好な親戚関係に僅かな隙間が生じているのである。目に見えて著明な問題ではない。歯痒い、気持ちの悪い、奥歯に何か挟まってる感じ、スマホのフィルムに気泡を生みだすホコリのような感じ。繊細ゆえに、取り除くのにもリスクがある微妙な問題。

これからも残り続けるであろうホコリだ。

おわりに

宗教の勧誘で訪問して来るおばあちゃんも、宗教関連で関わった人達に共通するのが、全く悪気がないことだ。なんだったら我々の為と思って善意で行動している。

これはもう、扱いきれない。

邪険にできないもの。

心底思うのは、宗教って繊細すぎて、土足で踏み込みにくいし、扱いにくい。その人の価値観や、人格形成にすら関連してるから、むやみに否定できないし。

そんなモヤモヤ感を抱きながら、宗教学の本を手に取っている自分にはきっと「怖いもの見たさ」みたいな野次馬心があるんだと思う。それもなんか変な感じだ。

※このコラムは、数年前に別のブログサイトに投稿したものを加筆・修正しています。近年はダイバーシティを受容する世間の動きも強く、現在の私も宗教に対して否定するつもりや強い抵抗感はありません。そのような多様性を理解できない20代の若造の頃に受けた印象を、多少引きずりながら数年前に書きました。みんな違って、みんな良い。でも、人に介入しすぎたらダメだよって話。

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